わたしが専門とする日本の歴史は「暗記の学問」と大方に受け止められている。教育現場では時間軸に
沿って事件を羅列し暗記を強いることがあるようで、子どもたちの歴史嫌いは加速するばかりである。そうし
た状況を危惧して私が先に提案した方法は、時間軸をいったん外してみることであった。ただし、これは言
うは易く行うはまことに難い作業である。

 けれど、途方に暮れた私は、干天の慈雨の如き本書と出会った。「日本の歴史」シリーズの一冊として上
梓された本書は、章ごとに歌謡・モノ史料(遺物や遺跡)・文献史料・鎌倉新仏教・絵画などビジュアル史
料・芸能・気候と環境、と多彩な歴史資料を用いて分析を進めるのであるが、ここには細密な、換言すれば
せせこましい時間の拘束がない。おおらかで緩やかな流れの中に、中世人と社会の変動が語られるので
ある。

 中央の政治動向が突出する凡庸な通史叙述は避けられ、人々の暮らしや、貴賎を問わぬ文化や、社会
のありようなどが魅力的に語られる。文献史料を読解して政治事件を述べる、という素朴な実証史学の方
法(これにしがみつく研究者のいかに多いことか)のためには、もはや僅かに一章分のスペースしか割か
れない。

 五味は本書のキーワードとして空間・身体・環境を挙げている。人は空間の中で立ち位置を確かめながら、
自らの身体を通じて、精神的・物質的なさまざまを感得し、体得する。そうした行為の集積として、地に足が
着いた時間の進展を考える。たとえば鎌倉時代後期に至り、人々は身体の延長として自分たちが居住する
列島を意識し、ここに日本という国家観念が共有される。国家は身体の顕現として認識されるのである。
また、いまもっとも注目を集める環境問題を中世に設定することにより、中世史を現代史として蘇らせる道筋
を模索する。

 本書のもう一つのキーワードは「ヒト・モノ・ココロ」である。中世の代表的な三つの都市は、京都−中央−
政治−ヒト、博多−境界−港湾−モノ、奈良−異界−宗教−ココロ、と分類される。三つの概念を意識してお
けば、網野善彦が一括りにして「自由」と読みかえた「無縁・公界・楽」も、無縁−宗教−ココロ、公界−政治
都市−ヒト、楽−港や市−モノと丁寧に捉え直すことが可能になる。網野史学に穏やかに、しかし根源的な
問いかけをつきつける解析であり、同じ研究者として感嘆せずにいられない。

 「ココロ」に着目することで本書は中世の精神性を広く、深いところまで取り込むことに成功している。安易に
神仏を持ち出すと分析は甘くなる。だが、中世人が呪いや祈りなど、科学では説明しきれぬ心性を育みながら
生活していたのも事実であって、これを過不足なく捕捉する方途の案出はかねてからの課題であった。五味
は文化を政治・経済に劣らぬ、時代を推進する要因として評価し、ココロを、ヒト・モノと並置しバランスをとりな
がら注意深く認識していく。それ故に一遍ら鎌倉の仏教者の活写が可能になる。「新古今和歌集」を撰集する
などして王朝文化の統合に成功した後鳥羽上皇の王権は、ついで鄙に勢力をもつ幕府を打倒しての政治的
統合へと歩を進める、という説明も矛盾なく成立し得る。

 本書と同一のベクトルを有する教科書で学べば、子供たちの歴史嫌いには確実に歯止めがかかるだろう。
「新しい」教科書の議論はまさにこの水準で行いたい。

文藝春秋 2008年7月号